「今は亡き恩師、友を偲ぶ」

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橋本隆夫君
戒名は 「冬岳隆照居士」
命日:昭和59年01月29日
2004年1月29日 19:55鎌田 雅子
今日は橋本さんのご命日ですね。
彼の亡くなった昭和59年は大雪の冬だったことが思い出されます。
 
若くして逝った人はいつまでも若い日の姿が心に残っていますね。
みなさんの心には彼とのどんな思い出が残っていますか?
それぞれの思い出を思い出して、偲んであげてください。
2004年1月30日 3:39  井上 髣Y 
皆さんこんにちは
大変ご無沙汰しています。
小生は未だバリ島にて悪戦苦闘を重ねております。
一人で永く異国にいると、夜が来るたびに若かりし(今でも
本人は若いと思っているのですが、、、、)ころを思い出します。
鎌田さんから橋本君の命日のメールが入り、彼を思い出していました。その後編集部から「投稿を」とのメールが入ってきましたので、書きます。

今だから話せますが、、、
麗高三年の時、彼は私と同じ5号舎でした。
彼はその長身からは、想像できませんが、とてもナイーブな性格でした。
よく敦賀の家にも遊びに行かせてもらいました。
二学期の頃、彼が学園を脱走したいと打ち明けてくれました。
小生は脱走するなら、成田山へお参りしてはどうか?と
彼に提案したところ、承知してくれました。

内緒で出かけようかと思っていたのですが、それでも寮担任の池田先生(和尚)にだけは話しておこうと相談しました。
和尚は「千英校長や高柳主事に報告すると、まず了解はとれないだろう、俺が全責任をもつから言って来い。」と言って頂きました。
そこで二人だけで成田山お参りを決行しました。
夜中の二時ごろ、疲れ果てて休憩しようということになり、
茂みの中に入り込みその場に座り込み、うとうとしました。

ところが5分ほどして、橋本が懐中電灯を照らして「井上!起きろ、見てみい、これお墓やで、、、、」と叫びました。なるほど光の先には、数々の石塔がたっていました。我々は、びっくりしてそこを脱出しました。
そしてとうとう成田山にたどりつきました。
そんな思い出があります。
川島と橋本は河津さんの恋敵だったのでしょうか????
川島は多くさんの彼女が居たのでどれが本当の彼女なのか知りませんが、、
橋本は昭和56年か57年?ごろ突然自宅に来てくれて、「俺は遠いところに行く(確かイタリア)だったと思いますが、、もう遇えないかも知れぬ。」
が彼との最後の言葉でした。
今も彼の長身がまぶたに浮かんでいます。
彼の冥福を祈ります。
それでは皆さんお元気で
バリは雨季で、蒸し暑い毎日がつづいています。
日本は厳寒の中と思います。
ご自愛下さい。
合掌
2004年1月30日 15:48   川島 堯

橋本に就いての思い出も、文章には書き切れない位に沢山、有ります。あいつと小生は、麗高1年生の時は、小生と同じ好みで、合えば喧嘩ばかりしてたし、2年生の時は、6号舎で小生の部屋子だったし、社会に出てからは、会社(川島)の社員にもなったし、あいつと俺は、変な所が良く似ていて、互いに、いつも刺激を求める割には暇を持て余し、ロマンチストで、飽き性、放浪癖が有り、寂しくなると連絡し合い、良く一緒に、あっちこっちへと、引き摺り回されました。でも・・、考えてみると、ほんとに、情が厚く、人間味の有る、憎めない性格でしたよね・・・。

今、橋本が生きていてくれれば、又、小生と一緒に、石垣島でホームレスに付き合ってくれて、楽しんでいたかもしれません・・・・。
そう言った意味では、本当に寂しい気持ちで一杯です。

末尾になりましたが、1月には16日が寛ちゃん、29日は橋本と、思い出多き麗澤の友人達が、若くして、先に逝った事を、特に寂しく感じている一人として、冥福を共に祈ってやりたいと思います。合掌!

2004年1月30日 17:31    寺西敬三です。

橋本隆夫くんの思いでは沢山有ります。
井上君の言うように高校2年の時亡くなった瀬戸先生の2学期の時間はよくと言っていいほど、エスケイプをしていました。
そこで、後藤君と二人で探しに行きグランド、寮を探し見つけると3人でお茶を飲みながらついでにサボっていました。
(悪いやつだ)授業の終る5分ほど前に教室に戻っていました。
2年の3学期に3年の送別会(?)で彼が実行委員長で若殿(バカ殿)の劇をしましたが、嫌がる私を主役に抜擢してやりました。
その時の彼の苦労を忘れません。(楽しかったです社会人になっての彼はある時は後藤君の会社にお世話になったり川島君の家にも何ヶ月もお世話になったりイタリアに行ったと思ったら最後にブラジルに行ったりして自分の思うままに生活していたように思います。
お酒も飲めないのに飲み屋に行くのが好きでカラオケがない時代に歌をよく歌っていました。思い出したらきりがありませんのでこの辺でおきますが本当によい友達でした。追伸 私達の結婚式の司会をしてくれました。そのお返しに弔辞を読ませてもらいました。

2004年1月31日 23:15    井出智子
皆様の橋本君を偲ぶメールを見ながら、ご一緒に偲ばせて頂きましたが余り接点がなく、お話する機会はありませんでしたが、2年生の夏休み、千葉の新舞子海岸で臨海学校のようなものがありました。
奥にしまい込んだアルバムに残された写真には、海岸まで、楽しそうに帽子を取り替えたりしながら、たわむれて話している姿が残されています。楽しかった海辺での数日を思い出していました。真っ黒に日焼けした帰宅時の珍事件などと共に・・・・その後、
橋本君亡き後、敦賀の橋本家とは縁が深く、橋本君のお兄さん
との関わりが深く、
父君の用件で我が家を訪れた麗大在学中のご子息が、
卒論をこれからに控えているとき、学部は違いましたが、元氏が面倒をみることになり、その後、恋人を伴って我が家を訪れるようになり、仲人までつとめ、今日まで、深く係わるようになりました。
彼らにとって、叔父さんは自由人として素敵な記憶を留めているようです。
心優しいご家族に恵まれていたことを、橋本君のお兄さんを通して感じております。
☆Tomoko Ide☆
2004年1月31日 13:11
橋本君の思い出           中川賢治
新潟に高速道路の工事に来ていたんだろうと思いますが、急に訪ねて来たことがありました。昼食前だったので一緒に食事に行き、新潟での仕事の話などを聞きました。治療の間隔が開いたせいか、私の治療が未熟だったせいか、なかなか治らず、その後何度か治療に来ては食事をした事があります。でもそのお陰で一緒に食事が出来ましたし、橋本君の仕事の苦労話も聞く事が出来ました。その後、工事が終わったんだろうと思いますが、治療途中で来なくなりました。そして数年して、彼が亡くなった事を聞かされました。いつかお参りに行かなくてはと思い、敦賀の実家にお参りに行って来ました。妙子さんのメールにあったように、お母さんは同級生に会うとかえって息子さんの事が思い出されるんでしょう、橋本君のことを色々と話して下さいました。 
卒業以来の再会だったのですが、私には橋本君のいい思い出となりました。
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  にいがた  なかがわ
  <Nakagawa Kenji >
2004年1月31日 1:51       寺西妙子
会えないもどかしさが やっぱり とても寂しいね    いつも 話題の絶えない イクメンだったしね。姫路にも 赤い車で 突然現れ びっくり お風呂で旭のうたの上手な事後で 敦賀の お母さんに遺品の歌のテープは?ときかれたりして お母さんいわく 息子ながら かっこいい惚れボレするなどと  思い出話したりして 彼が 生きていたら  例の如くたのしい話題で 29期を 盛り上げるスータ だったのにね  ああ 橋本ヤーイ! 隆夫やーい!    敦賀の 空に 飛んだまま。        よねちゃんより
2004年1月31日 22:15    折橋淳男
橋本の命日が1月29日だったとは、知らなかった。もう20年も経ってしまったわけですね。 高校3年の時、同室でした。私が部屋長で・・・。部屋っ子が学園の生活になじめなくて、悩んでました。橋本と何とかしなくては、とよく話し合いをしました。でも結局退学の道を歩んだ訳ですが、上級生として部屋長として、自分の力量のなさを感じました。部屋長が橋本だったら、退学しなかったのではないだろうかと自分を責めていました。その時、橋本にはよく慰めてもらったり勇気づけられたりもしました。卒業して京都にいた時、敦賀へ何度も遊びにいきました。決まって、パチンコです。あいつの早撃ちには驚きでした。以来、打ち方を伝授してもらい彼と同じ位早く打てるようになったけど、あまり勝った記憶はないです。そういえば、あいつに2000円貸したままだった。あいつ、金には執着がなかったから・・・。井上の結婚式で会ったのが最後だったかな?でも、もう一度会いたいなー!橋本のお母さんからもらった、博多人形。ピアノの上に置いてあります。時々、話し掛けます。「元気でがんばってるよ」っと!  涙がでるよ。      折橋。
2004年1月31日 22:28    鎌田 雅子
みんなにたくさんの思い出を残して、青春を駆け抜けて行ったのですね。
いろいろなエピソードが公開されて、今頃あちらで苦笑いしているのでは?
他の同級生の命日にも、みなさん、いろいろなエピソードを入れてくださいね。
有難うございました。(私が言うのも変ですが)
2004年2月2日 9:58  加藤 正  橋本君を偲ぶ
卒業して、こちら広池学園出版部にいたころ、 彼が突然顔を見せ、「ハイラム、これからブラジル へ行ってくるよ」と言って出かけていきました。 確か数年して戻ってきたときも来てくれたように 記憶しているけど‥。  いつも仕事中に訪ねてきて、デスクの隣にパイプ椅子を並べて話したのですが、一体何を話したのかは 思い出せない。それにしても彼の声は大きかったので、 回りの同僚はよく仕事できたなあと、その寛大さというか 変な所に感心しています。「元祖フリーター」っていう存在でしたでしょうか?