道は開けるから
「今こそ、真剣に相手の幸せを祈るとき」
モラロジー社会教育講師 三品きぬ江さん
| <材木店の跡取り娘> |
| 「この廣池学園に来るたびに、心のふるさとに戻ったような気持ちになります」新緑の季節、千葉県柏市の廣池学園を訪れた三品きぬ江さんは、嬉しそうに話し出した。 きぬ江さんの家は、滋賀県守山市で材木店を営んでいる。妹と二人姉妹だったきぬ江さんは小さなころから、祖父や父に「姉のお前が婿を取って、この材木店を継ぐんやで」と言われ続けて育ったという。 父が学ぶモラロジーに、幼いころからふれていたきぬ江さんは、15歳の春、廣池学園の中にある全寮制(当時)の麗澤高等学校へ入学した。 家族と離れた生活に戸惑いもあったが、明るい性格のきぬ江さんはすぐに打ち解けた。そして、寮生活やモラロジーで親孝行の大切さを学び、孝行するにはどうしたらいいかを考えるようになっていった。 楽しい学校生活を過ごすなかで、きぬ江さんは密かに思い合う人ができた。しかし、その人は長男だった。 父たちの言葉を思い出し、「店を継ぐことが自分の役割。それが親孝行になるはず」ときぬ江さんは考え、高校生活を終えた。 <優しくなりたい> 家に戻ったきぬ江さんは、父・清治郎さんから早く結婚するように勧められたが、どうしてもその人を諦めきれなかった。 当然、清治郎さんは猛反対。きぬ江さんは悩み、葛藤した。そして、周囲の人々から助言を受けながら、誠意を尽くして話し合い、数年かけてようやく了承してもらった。昭和46年に婚約を交わし、23歳のきぬ江さんは結婚式を待ち遠しく思っていた。 ところが、婚約から五ヶ月後のある日、思いもよらない知らせが届いた。 婚約者の訃報だった。幸せいっぱいだったきぬ江さんは、突然、奈落の底に突き落とされる。 ”どうして、こんなことに・・・・・”と自問する日々が続いた。そして、周囲から「父親の反対を押し切ったから、そんなことになったんだ」という目で見られているのではないか、と想像し、苦しんでいた。 一方、周囲の人々は、きぬ江さんが婚約者の後を追うのではないかと心配した。慰めの言葉やアドバイスなど声をかけてくれる人は多かったが、「ここで人生が終わりと決め込んだら、彼が悲しむ。ここで道を間違える人は多いが、それだけはしてはいけないよ」という婚約者をよく知る人からの言葉は、きぬ江さんの胸にそっと染み込んでいった。両親もまた、ただただきぬ江さんを優しく見守っていた。 人々の優しい心を感じるうちに、きぬ江さんはハッとする。 ------私が他の人のことを責める気持ちで見ていたから、周りから自分が責められると思ったんだ。でも、周囲の人は責めるどころか、私を包むように優しく見守ってくれている。私も人を冷たく見るのでなくて、もっと優しくなりたい-----。 そう気づいたきぬ江さんは、気持ちの整理が徐々につき、”一度は自分の想いを貫かせてもらったのだから、これからは、父が喜ぶ道に向かって進もう”と前向きに思うようになった。 婚約者の訃報から一年後、もう一度人生を見直そうと、きぬ江さんは千葉県の柏生涯学習センターで生涯学習講座を受講。生かされている恩恵を感じ、それに報いることの大切さを再認識した。受講中、高校の恩師から裕通さんを紹介され、お見合いをした。 麗澤高校の四年先輩だった裕通さんとは、話が合い、あたかもずっと昔から知り合いだったと思えるほど、すぐに打ち解けることができた。 何度か会ううちに、その優しい人柄に惹かれ、きぬ江さんは「この人なら」と、新たな出発を決心した。 <突然の別れ> 昭和48年、裕通さんが三品家に婿養子に入る形で結婚。すぐに長男を授かり、次男、長女、次女とニ男ニ女に恵まれた。両親と同居し、四人の子育てをしながら、材木店を切り盛りし、充実した日々を送っていた。 ただ、きぬ江さんには、なかなか素直に親孝行ができないことがあった。 もともと熱心にモラロジーを学び、特に「親孝行」には人一倍厳しかった清治郎さん。きぬ江さん夫婦に、「報告・連絡・相談が足りん」と叱ることが多くなった。 もちろん食卓を囲む際に、一日の報告をしていたが、耳が遠くなりはじめた清治郎さんにはそれが聞こえず、報告がないと思ったのだ。それを知ったきぬ江さんが大きな声で報告すると、今度は「もっと優しく言えんのか」と怒られる。仕事の仕方などでも叱られ、きぬ江さんもムッとすることがたびたびだった。 そういった些細な出来事が積み重なり、高校生のときに、”親孝行しよう”と誓ったきぬ江さんだったが、素直に父の言葉が聞けなくなってしまった。 そんな平静11年の暮れ、突然の別れが訪れる。清治郎さんが運転する車がわき道から飛び出し、優先道路を走っていた車に突っ込んでしまったのだ。 79歳という高齢での運転。事故の直前に免許の更新があり、家族は「心配なので運転はやめてほしい」と頼み、いったんはやめたものの、運転が好きな清治郎さんは免許の更新をした。その矢先だった。 すぐに病院へ運ばれたが、もともと心臓の弱かった清治郎さんは、ショックで即死状態。相手の女性も別の病院へ運ばれた。 事故の状況と相手が三十代の若い女性と知ったきぬ江さん。突然の事故を信じられなかったが、とっさに「おなかに赤ちゃん、いなかった?」と口をついて出た。一度、婚約者の死を乗り越え、人の苦しみがわかるからこそ、出た言葉だった。 女性は軽症ですんだものの、死亡事故の当事者になった事のショックは大きく、一週間ほど入院。退院後、夫に支えられるようにして、お線香をあげに来てくれた。 父を失った悲しみは深かったが、泣き崩れる女性の姿に、きぬ江さんは”なんて申し訳ないことになってしまったんだろう”と思った。 「あなたはお子さんもいらっしゃるし、まだまだ先がある。どうか一日も早く立ち直ってください。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません」と声をかけた。 実際、警察で調書を取るときも、全面的にこちらの非を認めた。警察から「死亡事故でこんなに和やかに調書が取ることができたのは初めてです」と言われたほどだった。 <父からの宿題> 事後処理を終えたきぬ江さんは、女性のことが気にかかり、何度も訪ねようとした。しかし、かえって心を乱すことになったら----と考え、具体的な行動は起こさず、心に留めるだけだった。 それから6年後、清治郎さんの七回忌を目前にしたある日、一本の電話がかかってきた。事故相手の夫からだった。 「お線香をあげさせていただいてもいいでしょうか」 事故のことは解決して久しく、この申し出は思いがけないものだった。 後日、夫に付き添われて、女性は暗く沈痛な面持ちで現われた。仏前で手を合わせ、「一日たりとも、忘れたことはありません」と涙を流す女性。 -----もう何年も経つのに、こんなにも深い傷を負わせてしまって、なんと申し訳ないことを-----。きぬ江さんは、これまで女性が自分を責め続け、どれほど辛い日々を送ってきたか、それを考えると胸が潰れる思いだった。 「今こそ、真剣にこの方の幸せを祈らせていただこう」 そう心に決めた。 帰り際、「またお参りに来させてもらってもいいですか」と女性が尋ねた。 「そこまでしていただかなくてもいいけれど、それであなたの気持ちが安らぐのなら、いつでも来てくださいね」 そう言って、あらかじめ用意していたお土産と、清治郎さんが愛読していた『ニューモラル』を手渡した。 去っていく女性の後姿に、きぬ江さんは、自然と祈る気持ちが湧いてくるのを感じた。 「亡き父もきっと、女性の幸せを祈っていると思います。出会いとしては不幸なものでしたが、父は私たちに、相手の幸せをどう祈るか、”宿題”として遺してくれたんです」ときぬ江さんは述懐する。 それ以来、起床時や就寝前など、以前にも増して、きぬ江さんはその女性の幸せを祈るように心がけた。 一年後の平成18年、清治郎さんの命日を前に、また電話がかかってきた。 今度は、女性本人からだった。 玄関に現われた女性の表情は、七回忌のときのそれと、別人と思えるほど違っていた。 仏壇に手を合わせた後、お茶を飲みながら話していると、「去年、お参りさせてもらって、心の整理がつきました」と、女性は静かに微笑んだ。 穏やかさと明るさを宿し、世間話ができるほどまで回復した女性の様子に、きぬ江さんは、「ああ、よかったなあ---」と、心から安堵した。 <次の世代へ> 今年、還暦を迎えるきぬ江さん。人生の節目でさまざまな出来事に直面したが、高校時代に最も心惹かれた格言「自ら運命の責めを負うて感謝す」を胸に、歩んできた。 「廣池千九郎博士は、問題が起こったときどう受けとめるかを教えてくださっています。私は、悲しいことも辛いこともいっぱい味わうのが人生だと思う。 より深く、より楽しく味わって、自分を磨いていく、それが人生なのかなと思います」 そう話すきぬ江さんは、清治郎さんにできなかった親孝行を、母・信子さんに対してどれだけしていくか、ということに気を配っている。そして、そのなかで、子どもたちや孫に、感謝報恩の大切さを伝えることができたら、と微笑む。 現在、材木店は長男夫婦が継ぎ、娘二人もすでに嫁いだ。子どもたちが結婚していく姿を見るにつけ、きぬ江さんは、夫・裕通さんの両親が、大切な息子をよく養子に出してくれたと、ありがたく感じている。 「結婚を機に公務員から商売をすることになった夫の苦労は並大抵でなかったと思います。そんな苦労があっても、夫は、実の親のもとで気楽に暮らす私を包み込むように支えてくれました。優しい夫に心から感謝しています」と、きぬ江さん。 これからは、今日まで支えてもらった分、守山モラロジー事務所をあずかる裕通さんを手伝い、モラロジーにご縁のある方々の幸せを念じて、ご恩返しの日々を過ごしていきたい。そう語るきぬ江さんの表情は、いきいきと輝いていた。 |