人間になること ・・・・・最大の恩
私たち人間の幸せは、まず第一に、人間であること、特に人間の心をもっている
ことの中にあります。人間の心は、誕生してから後に、教育によって育てられ、
養われるものです。
<おじいちゃんが寒いから>
もうずいぶん以前のことですが、冬の寒い日に、家族揃って墓参し、いつもの
ように墓石に水を注いでいると、そのとき小学校二年生だった子どもが、「おじい
ちゃんが寒いから、この次はポットでお湯をもってこよう」と言ったので驚きました。
それは、私にとっては、思いがけなく、またとても感動的なことでもあったのですが、
そのとき直ぐに私の心に浮かんだことがありました。それは、このときに子どもが
「おじいちゃん」と呼んだ私の父が私に話してくれた、祖父の親孝行の実行のこと
でした。私には、この祖父の生き方とこのときの子どもの言葉が、無関係なことには
思えませんでした。
私の感動は、第一に、子どものこの言葉から尊敬、敬愛、感謝、思いやりなど、
温かい人間の心が伝わってきたことです。この子が生まれたときには、私の祖父も
父もすでに故人となっていましたので、この子はその祖父にも父にも会ったことがな
いのですが、祖父や父やそれよりもさらに以前の祖先の心が真っすぐにこの子の
心に伝わっていることが、そのときありありと実感され、特にそのことに深く心を
動かされました。
<人間精神を育てる道徳的・教育的努力の累積>
ドイツの博物学者ヘッケル(1834〜1919)は、百年以上も前に、「生物の
個体発生は、種の系統発生を短時間に要約して反復する」という重要な法則を
発見しました。それは、受胎から成体となるまでの生物個体の発達過程は、
三十億年以上にもおよぶ祖先の進化の連鎖を短く再現したものであると
いうことを意味します。
人間の発達過程では、体だけでなく、誕生後の精神の発達においても、
未開時代から現在までの精神進化の永い経過を一代で再現します。人類の
精神進化は、人間の心をもった人たちが、次世代の将来のために、一人ひとりの
子どもの心に人間の心を養い育てようとする、道徳的・教育的な努力の累積に
よってできたことです。
私たち人間は、人間の体をもって生まれても、体が成長すればそれに伴って
自然と人間の心が育ち自立した人間になるということはありません。人間一人が、
肉体だけでなく、精神の発達も遂げて、人間の心を養われるのは、誕生してから
後に、前世代の人たちが、意図的に、特にその人だけのために、人類精神進化の
過程を短時間のうちに、有効に再現することに力を尽くしたからです。
<人間精神の可能性>
私たち人間のあらゆる営みは、心の働きの現れです。目に見えるものだけでなく、
喜び、苦しみまでも、すべて心が生みだしているものです。心はつねに休むことなく
働いていますが、その働きそのものは目で見て確かめることができないので、
日々の生活では、目に見える現象だけに心が奪われて、その元にある心の働きを
見失いがちです。
だれもが、いつでも、自分だけで変えることができるのは、自分自身の心の使い方
だけです。学力、知力、金力、権力などの人間の諸力には、明らかな限界があります
が、心をつくりその力を発揮することには、限りない可能性が残されています。
心を使うことは、日常不断のことで、時々刻々の心づかいのすべてを、私たちは自
分で選択しています。どれほど些細な心づかいも、確実に原因をつくり、法則に従っ
てその原因に応じた大小の結果を生みだしています。
<感謝と喜び>
人間の幸せは、感謝と喜びにありますが、それも、いつでもどこでも、みずから
選択し、みずからつくることができる心の働きです。
感謝と喜びは、つねに一体のものです。感謝するから喜べるのであり、
喜ぶから感謝することができます。また、感謝にも、喜びにも、種類があり、
その質と深さに違いがあります。単にそのときの自分の欲望が満たされたから
という感謝・喜びもありますが、「人さまの幸せが心から喜べた」という感謝・喜び
もあり、自分が出会うものごと「すべてを喜び、すべてに感謝する」という心づかい
もあります。真の感謝・喜びは、幸せの結果というよりも原因です。人間は、
幸せだから喜び感謝するのではなく、ほんとうは、感謝し喜ぶから幸せなのです。
<この世に、この私に生まれてよかった>
私は、この時代に、この世に、人間として生まれたことを、心から、「よかった」と
思っています。また、この国に、この家に、この私に生まれたことも、心から有難い
ことと思い喜んでいます。私は欠点・短所が多く、多くの方々にお世話になって
生きている人間ですが、それでも、私は、この私に生まれ、これまでに現在のこの
私に育てていただいたことを、心より「よかった」と喜び感謝しています。
感謝し喜べる人間の心は、親や師によって育てられましたが、親にはその親が
あり、師にはその師があり、元をたどれば限りないご恩の連鎖があって、その根本
には先人によって大切に守り続けられてきた偉大な精神があります。
子どもが言った「おじいちゃんが寒いから」は、私にとっては、大変有難いひと言
でしたが、そのひと言を通して、その背後にある、父母、祖父母、祖先、師、先師の
多大なご恩を実感することもできました。また、このような深い感謝と喜びを感じる
ことができる心を育てていたことが、諸恩人からいただいた最大のご恩であるという
深い気づきにも導かれ、そのことにも心から感謝することができました。
モラロジー研究所発行平成15年「れいろう」11月号記事より