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特集●「父母に学ぶ」
黒田 光
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| 「高慢になるな、報恩を怠るな」 |
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父・祐次は明治四十三年、母・まさゑは大正六年、ともに岐阜県羽島市に
生まれました。父は、小学校を卒業すると、名古屋の叔父が営む スリッパ製造店に住み込みで働き、二十七歳のとき母と結婚し、三十歳で独立 してスリッパ製造卸業を始めました。 昭和二十六年、愛知県尾西市の服部銀市氏の勧めでモラロジーの研究を 始め、以来、研究と実践につながることは、どんなことにも熱心に取り組 みました。 最初の実践は毎朝のお参りと親孝行でした。 「黒田家のご祖先、浅野家のご祖先、○○家のご祖先、○○家のご祖先、 おはようございます。ご祖先様のご苦労のお陰で、このように幸せな生活 ができますことを心から御礼申し上げます・・・・・・・」 と、家族も従業員もそろって仏壇に向かい、従業員全員のご祖先に拝礼 しました。 父は二十歳のとき、叔父の店での奉公のことで祖父と二晩言い争い、自分の 考えを押し通したことがありました。のちに父は、そのときのことを詫びながら 病床の祖父を介護しましたが、祖父亡きあと、祖母に対する徹底した孝行ぶり は、祖父に対する不孝への償いだったに違いありません。 やがて、親戚にモラロジーを勧めたり、従業員の教育に力を注いだり、家業の 発展をめざして、モラロジーに基づく道徳経済一体の経営を真剣に研究したり しました。 また、父は従業員に自分のことを「専務」と呼ばせていました。それは「家業・ 職務は人心開発救済の一公設機関」で、「神様が社長」という教えを忠実に 守っていたからでした。 モラロジーを学んで人生の指針を確信し、事業も比較的順調だったころ、 父は次々と苦難に見舞われました。 まず、五十代では膵臓炎と結核性脊髄カリエスに苦しみました。病のほうは 負けん気と生命力で乗り越えましたが、六十代に遭遇した従業員の感電死と 工場の火災は、父と母にとって人生最大の苦難でした。しかし、父は「お陰で、 私の高慢の鼻はへし折られ、ひたすら頭を下げるしかなかった、これも神様の お慈悲だ」と、何度も語って聞かせてくれました。 母からのメッセージ 平成十年七月五日、母が急逝しました。春先から体調を崩したとは聞いていま したが、私は何か月も母に心を寄せることもなく、母からの電話で、六月末にあわ てて帰郷したのが最後になりました。 モラロジーを学んで、親に心を向けることの大切さを熟知していたはずなのに、 なんということでしょう。母が亡くなってしばらく、私は自責の念と重い悔いに沈んでいました。 ところが、ある日、ふと母のことばを思い出してハッとしました。 「お父さんがモラロジーの事務所を預かるようになったとき、私は本当に誇らし かった。お父さんに付いてモラロジーの勉強をしてきて、本当によかった」 父がモラロジー事務所の主任を拝命したのは、昭和四十四年でした。打ち続く病と 災難のさなかに事務所のお世話をすることは、決して容易なことではありません。 しかし母は、「大変だった、辛かった」ではなく、モラロジーとの出会いに満腔の 感謝と喜びを示したのです。それは、私にモラロジーに生きる覚悟を問いただして くれました。 父の戒め 父は、七十を過ぎてからは比較的健康で、元気に卒寿を迎えましたが、次第に体の あちこちに不調を訴えるようになり、平成十五年の初秋、とうとう入院しました。 私はできるだけ父を見舞い、慰安に務めました。もっとも、毎日介護に心を砕いた 兄や姉たちには遠く及びませんが・・・・・。死期が迫ったころ、父は家族に対して 少しわがままになりました。自分にも家族にも厳しかった強い父が、最期に見せた 人間としての弱さでした。その年の十二月二十八日、父はついに息を引き取りました。 父の私に対する戒めは、いつも「高慢になるな」「報恩を怠るな」「地方の方々の 開発のご苦労を忘れるな」「お菓子料を決して私するな」の四点でした。亡くなる数年前 に、やっと言われなくなりましたが、父の口から代わって出てきたことばは、「自分が 徳をもらいすぎているかいないかは、自分でおおよそわかりそうなものである」 (松浦 香著『廣池博士の講義』)でした。 最近、その意味が少しわかりました。「私はこんなにも恵まれ、こんなにも幸せに 暮らしている。それも私の道徳的努力の結果ではない。すべては親祖先の余徳と 精神伝統の大恩のお蔭だ。とすれば、伝統報恩と人心開発を離れて、私の人生は ない」と。 お父さん!これでいいですか? |
れいろう2006年2月号から抜粋