| この四月、アメリカ南部のバージニア工科大学で、三十二人もの人が殺されるという、米国史上最悪の銃乱射事件が起きました。日本においても、非核運動を続け、平和の象徴とも言われた長崎市長が、選挙活動のさなかに銃で暗殺されました。痛ましいかぎりです。 アメリカでは二億挺以上も拳銃が出回っていて、自衛のために銃を所持している人も多く、皆それなりに覚悟と警戒心を持っていますが、今回の事件は大学の寮と教室という無防備な場で起こりました。三方、日本は、豊臣秀吉の刀狩以来、一般国民は武器を持ってはいけないことになっています。また、先の敗戦で、戦争反対、暴力反対の平和主義の国となり、温厚な国民性とあいまって、世界一安全と言われる国ができました。ところが、市長暗殺によって、日本も銃社会になりつつあることを認識させられました。 日本もアメリカも民主主義を標榜していますが、民主主義の根幹である自由と安全を暴力からどう守るかについては、だいぶ違いがあるようです。 アメリカでは、憲法修正第二条によって、銃器の保有は憲法が保障する国民の権利であると認められています。あの乱射事件の際も、自衛の武器を持っていれば助かったという議論があるほどです。したがって銃の規制強化の声は強くなっていますが、禁止や撤廃の声は上がっていません。銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだからと、教育によって安全な社会の建設が可能になるという信念があります。 かたや日本では、銃による殺人、暴力は絶対に許せない、という感情論だけで終始しているように思います。政治家や文化人、マスコミは、「民主主義を揺るがす暴挙だ」などとただ怒りを表すだけで、暴力をどう防ぎ、自由と安全をどう守るか、具体的な議論はまったく出てきません。さらに、警察官は犯罪から市民を守るた めに銃を携帯しているわけですが、犯罪者に対して一発でも発砲したら、国家権力の横暴だ、などと批判する者もいます。警官は相手が撃つまで発砲してはいけないと聞いたこともあります。これでは犯罪の前に倒れる警官が出てきたとしても不思議ではなく、市民の安全は保障されません。 私たちは拳銃を見たことも触れたこともありませんが、インターネットや海外旅行などで手に入れようとする者が少なくありません。ある意味、野放し状態になっているこの現実をどうしたらよいのか。銃の間題だけではなく、北朝鮮による拉致問題、似非宗教団体による反社会活動、外国人による凶悪犯罪等々に対しても、政治家や文化人、マスコミには、具体的な対策を提起しようという断固たる姿勢が欠けているように思います。暴力への怒りを表現し、暴力反対を唱えるだけでは、日本の治安はいっこうによくなりません。 言うまでもなく、自由には責任や義務が伴います。安全は、社会規範を守り、他者を思いやる心と行動によって確保されます。こうした自覚は道徳教育によって培われます。道徳教育の必要性を認める声がようやく出てきたことは、結構なことだと思います。 私たち日本人は、恵まれた自然環境の中で生活し、また敗戦によって平和と安全がアメリカによって守られてきたために、長い間、「水と安全はタダ」と考えてきました。さらに民主主義の根幹である自由についても、当然のことと思っています。しかし、自由を獲得し、安全を確保するためには、時に大きな代償を払わなけれ ばならず、また不断の努力が不可欠であることは、世界の歴史と現実を見れば明らかです。暴力を怒り、反対を唱えるだけではなく、自由と安全を守る覚悟を持った国民を一人でも多く育てることが肝要です。そのための教育が、今、最も必要ではないかと思います。 本稿は、財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2007年6月号)誌に掲載 されている 廣池幹堂理事長の「巻頭言」で、ご本人の承諾をいただき掲載をしております。 |