| 先日、テレビで元イギリス外交官サムエル・フォール卿が、日本海軍の駆逐艦の工藤艦長のことを語っていました。それは感動を通り越して、文字どおり信じられない(アンビリーバブル)物語でした。 大東亜戦争が勃発した翌年の昭和十七年二月二十八日、ジャワ島北方のスラバヤ沖から物語は始まります。当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、連合国艦隊は連日猛攻撃を浴び、イギリスの巡洋艦「エクゼター」、フォール卿(当時、中尉。二十二歳)の乗った駆逐艦「エンカウンター」も攻撃を受けて、三月一日午後、海に沈みます。乗組員たちは救命ボートにしがみつき、船から流出した重油の海の中を漂流します。フォール中尉は、オランダの飛行艇が救助に来てくれるものと信じていましたが、いつまでたっても救助は来ません。漂流して二十時間、絶望の底でみな生きることをあきらめかけたとき、日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)が現れます。乗組員二百二十人の小型戦闘艦ですが、数日前の海戦では連合国軍の船三隻を撃沈するなど、その威力を見せつけていました。艦長は工藤俊作中佐。 雷の乗組員が多数の浮遊物に気づくと、工藤は敵潜水艦の潜望鏡の有無を確認するように指示します。かつて米潜水艦から魚雷攻撃を受けていたうえ、前日には日本の輸送船が潜水艦に撃沈されたばかり。危険海域ゆえ、戦闘用意を指示したのです。やがて浮遊物がイギリス兵で、その数四百名以上と伝えられます。 雷は漂流者を射程距離に捕らえました。工藤が見たのは、ボートなどにつかまり、必死に助けを求める兵たちの姿でした。ここは敵の潜水艦にいつ襲われるかわからない危険海域、どうするかは艦長に委ねられています。フォール中尉たちは機銃掃射による最期の瞬間を覚悟しました。しかし工藤は「救助!」と叫び、救難活動中を示す国際信号旗をマストに掲げたのです。海軍兵学校時代から武士道精神を叩き込まれていた工藤は、敵国とはいえ、救いを求めているイギリス兵を見殺しにはできず、即座に、かつ当然のこととして、この行動をとったのです。 世紀の救出劇が始まりました。イギリス兵たちは雷に向かって必死に泳いできますが、過酷な漂流で体力は限界を越え、自力で上がれる者はほとんどいません。日本兵たちは海に飛び込み抱えて救助します。甲板ではイギリス兵の汚れた体を拭き、貴重な真水や食料を惜しみなく与えます。工藤は漂流者を残らず助けるように指示し、遠方に一人でもいたら船を近づけて停止させ、救い上げます。全員を救助し終わったとき、その数は雷乗組員の倍近い四百二十二名にのぼりました。 救助活動が終わると、工藤はイギリスの士官を集め、英語で言いました。「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と。ゲストたちは、翌日、ボルネオ島の港で日本管轄下の病院船に捕虜として引き渡されました。「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称えることだと思います」とフォール卿は語ります。彼は戦後、外交官として活躍、定年退職後に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記しました。 フォール卿の話に感動した元自衛官が『敵兵を救助せよ!』(恵隆之介著、草思社刊)を書きました。恵氏は工藤の遺族にも取材をしましたが、この救出劇を知る人はだれ一人としていなかったそうです。昭和五十四年、七十八歳で他界した工藤は、己を語ることをしなかったのです。 戦時下にありながらも、卑怯を恥じ、弱きを助け、心から労わる武士道精神に生き、その功を語らなかった日本人がいたことを、私は誇りに思います。そして、生きる目的や人間としての誇りを失ったすべての日本の若者に、工藤のこと、工藤を生んだ日本の精神風土のすばらしさをぜひ知ってほしい、と強く願うものです。 本稿は、財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2007年8月号)誌に掲載 されている 廣池幹堂理事長の「巻頭言」で、ご本人の承諾をいただき掲載をしております。 |