| この夏、新潟県中越沖地震被災地の皆さんにお見舞いをさせていただいたどころ、現地のMさんから母親の追悼録が送られてきました。昨年六月、九十三歳の天寿を全うされた母Sさんが七十代のころに綴った手記をまとめた小冊子で、一気に拝読しました。 昭和十七年春、満洲柏崎村分村計画の話が出て、Sさんの夫は渡満の決意を固めます。Sさんの父親は、娘と五人の孫に苦労をさせたくないと反対し、「満洲には行くな。子どもを連れて実家に帰ってきをさい」と言いました。Sさんは父に感謝しつつ、子どものために夫について満洲に行くことにしました。 開拓村では家をつくることから始め、一日中、慣れない農作業をしました。やがて戦争の波が開拓団にも押し寄せ、二十年八月三日、夫が出征、母と六人の子(満洲で二人生まれ、一人亡くなる)の苦難の生活が始まりました。ある夜、山奥で伐採作業をしていた中国人労働者が引き揚げていきました。その朝四時ごろ、避難準備をして開拓本部前に集まるようにとの知らせがあり、Sさんは子どもを起こし、着の身着のままで家を出ました。行くあてもない逃避行が始まり、あまりのつらさに死を考えたこともありましたが、子どもたちも頑張り、やっとの思いで丘の上に辿り着くと、飛行機の音がして、ビラが一面に舞い降りてきました。「日本国降伏」と書かれていましたが、信じることができないまま歩き続け、夕刻、清河鎮の船着き 場に着きました。ぐったりしている子どもたちを見て、「満洲には行くな」と言った父親の言葉が思い出されました。 野宿生活で疲れきり、ある開拓団村の人たちが全員自決したと聞くと、Sさんも松花江に身を投げることを考えました。しかし、日本人全部が自決したら日本の国はどうなる、どんなに苦しくても生きのびることができれば、日本はまた発展するのではないか、一人でも命を大切にしなければ、と思い直しました。 避難民が集まってきて集団生活が始まりましたが、ソ連兵が来て、なんでも持っていきました。若い女性たちは水田の水路に首まで潜って身を守り、Sさんは坊主刈りの顔に墨を塗って身を守りました。そんな中、四、五人の女性が、「私たちがソ連兵の所へ行きます。そうすれば少しは暴行もなくなるでしょう」と申し出て、皆で泣きながら送り出しました。昭和二十一年の雪解けのころ、開拓団はハルピン行き組と残留組に分かれ、Sさんは四人の子(避難中に二人亡くなる)を連れてハルピンまで行く自信がなく、残留組を選びました。母子は一晩中火を焚いて寒さに耐え、大根や菜っ葉を拾ってきては煮込んで食べました。体は衰弱していきましたが、自分が倒れたら子どもが餓死してしまうと気力だけで生きのびました。ある日、Sさんが寝込んでいると、外で遊んでいた長男が、親切な中国人のおじさんがいる、と言ってきました。Sさんはその0氏の所へ行き、拝む思いで、「私はあなたの片腕になって働きます。どうか四人の子どもを助けてください」と懸命に頼みました。親切な0氏はSさん母子の命の恩人となりました。長男が十七歳のとき、日華平和条約が結ばれ、帰国と残留が選べることになりました。Sさんは命の恩人であるO氏と、その間に生まれた二人の子を置いては帰れないと、昭和二十八年五月、長男一人だけを日本に帰しました。祖国日本で死にたい、と望んでいたSさんは、昭和五十年四月、六十二歳のとき、残留婦人、残留孤児たちと三十三年ぶりに里帰りし、そのまま日本に永住しました。以来、子どもを次々と呼び戻し、三十年間連れ添ったO氏も日本に招きました。0氏は余生を日本で過ごしました。新潟県中越沖地震、そしてSさんの人生を思うとき、命がつづいていくことはなんとありがたいことかとつくづく思うしだいです。 本稿は、財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2007年11月号)誌に掲載 されている 廣池幹堂理事長の「巻頭言」で、ご本人の承諾をいただき掲載をしております。 |