| このたび「若泉敬先生メモリアル・ルーム無畏無為庵」(むいむいあん)をモラロジー研究所に設けました。国際政治学者・若泉敬先生(1930〜96)は、福井県 鯖江市のご自宅を「無畏無為庵」と名づけ、そのリビング・ルームで各国の大使や国内外の要人と交流を深めました。縁あって、そのリビングを移設し、再現したのです。 先生は昭和五年、鯖江市に生まれ、十五歳のときに福井で米軍の攻撃を目のあたりにします。戦後は東大法学部を卒業し、昭和三十年から二年間ロンドン大学へ留学、その間、アーノルド・トインビー博士と親交を持ちます。戦中の体験や偉大な歴史家との交流は先生を国士にします。 日本人としての誇りを胸に、どんな権力者に対しても臆することなく堂々と胸襟を開いて真実を語る勇気と人間性は、先生が尊敬してやまない郷里の先人・橋本左内(1834〜59)を髣髴とさせます。その姿が佐藤首相(当時)の目に留まり、首相のたっての願いで先生は沖縄返還交渉に関わり、大学に籍を置きつつ首相の密 使としてたびたび渡米し、キッシンジャー補佐官と時に激しいやりとりをします。その結果、佐藤・ニクソン会談を経て昭和四十七年五月に沖縄の施政権が日本に 返還されます。 この返還には極秘の条件が付与されていました。日米の事前協議によって、米軍は沖縄の米軍基地に核兵器を持ち込めるというものです。戦争で失った領土を平和の内に取り戻すという歴史上まれな快挙の裏には、このような国際政治の冷徹な現実があったのです。このことは、日本国民、とりわけ沖縄県民は知る由もありません。若泉先生自身は、これを口外するつもりはありませんでしたし、県民に対して申し訳ないという気持ちを終生お持ちでした。それは著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994)にも明らかです。 引退後、先生は郷里の福井で静かな生活を送りますが、その草深いお宅に当時の米英ソ中の駐日大使が時に夫人同伴でわざわざ訪ね、親交を深めました。その事実は、先生の足跡がいかにすばらしかったかの証左です。 郷里の偉材・橋本左内は、十歳で『三国志』を通読し、十五歳のときには『啓発録』を著します。横井小楠、西郷隆盛、佐久問象山などと親交を結び、欧米列強が開国を迫る中での将軍継嗣問題では、一橋慶喜を立てて国難を乗り切ろうとする賢侯・松平慶永の懐刀として奔走します。井伊直弼の「安政の大獄」で斬刑に処せられるのですが、その二十五歳の死ば、吉田松陰同様、まことに惜しむべきことでした。 左内は.噌啓発録』に記しています。 一、稚心を去る 一、気を振るう 一、志を立てる 一、学を勉める 一、交友を択ぶ 若泉先生も、陰かつて「国際的日本人」と題する講演で、話されています。「それ(外国語が話せること)も大切ですが、その前に肝心の伝えるべき思想内容を持つ、つまり立派な日本人になることが大前提です。日本の文化や伝統、歴史を正しく理解し、それを謙虚な意味で誇りにして、世界の中で堂々と自己主張ができて、初めて国際的日本人と言えるのではないでしょうか」「そのためには、まず自分の人生目標を明確に定めることが必要です。次に、自主独立の精神を持つということです。甘えた依存心を断ち切って自我を確立し、自己の主体性を持つ。そうして初めて、他人のことも、社会のことも、国家のことも考えることができるのです」。左内と若泉先生の心は通底しています。 「危機管理とは、考えられないことを考えること」若泉先生の言葉です。安全神話が崩壊しつつあるのに、まだ平和ボケ状態にある現在の日本人一人ひとりが噛みしめるべき言葉ではないでしょうか。 本稿は、財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2007年12月号)誌に掲載 されている 廣池幹堂理事長の「巻頭言」で、ご本人の承諾をいただき掲載をしております。 |