『 大久保神社
モラロジー研究所理事長
廣池学園理事長
廣池幹堂
  過日、郡山市安積町の大久保神社に参りました。祭られているのは大久保利通です。
 明治初期、今は市街地の安積地方は、水の便が悪く、荒漠たる原野でした。明治五年、安場保和が福島県に赴任、岩倉遣外使節団の一員であった彼は開拓に意欲的で、県令(知事相当職)になると、旧米沢藩士・中條政恒を県の典事(課長職)に任命し、安積原野の開拓に当たらせます。中條が商人たちに「富豪なりと言えど村のため国のために尽くすところなくんば、守銭奴の侮辱免れるべからず」と説くと、商人たちは立ち上がり、明治七年に開成社が誕生、開拓を進めるようになります。
 明治九年、明治天皇の東北巡幸の先発隊として内務卿・大久保利通が福島に来ます。中條は大久保に県の開拓事業を話し、さらに安積全域に開拓を拡大したい、そのために猪苗代湖の水を安積に引きたい、その疎水事業を国の費用でやっていただきたい、と訴えます。
 維新成り、政治の中枢にいた大久保は、新政府の基礎固めをしていました。岩倉使節団の随行体験から近代化のための殖産興業を重んじ、のみならず、職を失い困窮を極める旧武士の救済(士族授産)を心がけるのです。
 中條から安積開拓の構想と要望を聞いたとき、大久保は目の色を変えたといいます要望と持論が一致していたからです。帰京した彼は調査官を派遣し、十族授産の開拓地として安積が最適であることを確認、ここに明治政府による国営事業第一号「安積開拓」が始まるのです。県内外の九藩の士族など、二千余人が移住してきました。
 明治十一年五月、大久保が暗殺され、疎水事業は頓挫するかに見えましたが、中條らは陳情を繰り返し、内務卿・伊藤博文に引き継がれます。翌十二年十月、伊藤や松方正義らが列席して起業式が行われ、のべ八十五万人、三年の歳月を費やして安積疎水は完成します。
 明治二十二年、地域の人々が大久保の遥拝所を設け、二年後、大久保神社とし、水への感謝を込めて大久保神社水祭りを毎年旧八月一日に行うことにします。四十四年には追遠碑が建立されます。廣池千九郎(モラロジーの創建者)も昭和三年十月に慰霊に来ています。
 大久保利通は盟友・西郷隆盛を討った策略家としてあまり人気がないようですが、大久保神社に参ると、身を粉にして社会のために尽くした彼の真情を感じます。世界史の奇跡と称賛される明治の近代化、その大業の陰にはこのような事実があったのです。
本稿は、財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2009年2月号)誌に掲載 されている 廣池幹堂理事長の「巻頭言」で、ご本人の承諾をいただき掲載をしております。
バックナンバーは下記をクリック
11月 12月 1月 2月 3月 4月
5月 6月 7月 8月 9月 10月
11月 12月 1月05 2月05 3月05 4月05
5月05 6月05 7月05 8月05 9月05 10月05
11月05 12月05 1月06 2月06 3月06 4月06
5月06 6月06 7月06 8月06 9月06 10月06
11月06 12月06 1月07 2月07 3月07 4月07
5月07 6月07 7月07 8月07 9月07 10月07
11月07 12月07 1月08 2月08 3月08 4月08
5月08 7月08 8月08 9月08 10月08 11月08
12月08 1月09