| 薩摩半島南部の小さな町・知覧。かってこの地から400人を超える若者が南の空に散っていきました。人類史上類をみない特攻作戦で、彼らが命に代えて守ろうとしたもの、それは祖国「沖縄」でした。 昭和27年、日本はサンフランシスコ講和条約により、7年ぶりに「主権」を回復しました。世界を驚かせる高度成長を遂げ、39年には、アジア初のオリンピックを実現します。その年、佐藤栄作首相は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終らない」と返還への決意を語りました。 当時のアメリカは、共産主義から自由の砦を守るべくベトナム戦争を必死に戦っていました。多くの血を流し、戦い取ったオキナワをなぜ日本に無償で返さなければならないのか。アメリカ世論の反発は必至でした。この厳しく困難な交渉に佐藤首相の「密使」として奔走した人物が、最後の国士といわれた国際政治学者の若泉敬先生です。 キッシンジャー補佐官を相手に丁々発止とわたりあい、ついに佐藤・ニクソン共同声明をまとめあげました。昭和47年、沖縄の本土復帰は県民の悲願でもある「核抜き本土並み」の条件で、27年ぶりに実現しました。戦争で失った領土を話し合いで取り戻すという世界史上稀にみる快挙に日本中は沸きました。ところがその裏には、緊急時に核を再持ち込みできるという「密約」が存在していたのです。先生は「政治は結果責任」と語られ、このことを口外するつもりはなく、沖縄県民に申し訳ないという思いを終世お持ちでした。 その後、先生は日本人が真の独立に目覚めることを願い、「国民への遺書」として交渉機密を記した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋、1994年)を出版します。「自ら進んで天下の法廷の証人台に立つ」との決意で、国会の喚問があれば全身全霊で応える覚悟でした。 しかし、その思いは裏切られます。「愚者の楽園(フールズパラダイス)」と化した戦後日本の姿に失望した先生は、著書刊行の2年後の平成8年、故郷の福井で生涯を閉じられました。 それから17年後の今年、政府主催として初の「主権回復の日」の式典が開催 されました。それに対し、沖縄では「屈辱の日」として抗議集会が行われました。真の独立とは、国益とは何か。いつか沖縄でも「本土並み」に主権回復が祝える日がくることを、若泉先生は願っておられるに違いありません。 本稿は、公益財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2013年7月号)誌に掲載されているものです。
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