| 日本から南におよそ3000k、西太平洋に浮かぶ人口20.000人の国、パラオ共和国。マリンスポーツのメッカとして知られるこの島々がかって、史上稀にみる激戦の地であったことを知る人はどれだけいるでしょうか。 戦後70年の今年、天皇皇后両陛下はここパラオを訪問され、大統領はじめ、現地の島民の方々に熱烈な歓迎を受けました。 陛下はかねてから南洋の慰霊に強い思いをお持ちになり、今回、10年越しでの実現となりました。子供からお年寄りまで日の丸の小旗を振って、笑顔でお迎えする様子からは、陛下のお越しを待ちわびていた島民たちの思いが伝わってくるようでした。 昭和19年、米軍は日本が守るサイパン、グァムを次々と攻め落とし、パラオ諸島に侵攻しました。「2.3日で落とせる」と見ていた米軍に対し、守備隊は敢然と立ち向かい、戦闘は70数日に及びました。勇戦する守備隊に対し天皇陛下から11回もの御嘉賞が贈られたため、「天皇の島」とも呼ばれました。 日本の守備隊長・中川大佐は、米軍の侵攻必至となるや、島民の方々を安全な所に避難させました。「日本と一緒に戦いたい」と志願する島民の方も少なくありませんでした。戦いが終わると、島民たちは泣きながら戦死者の遺体を埋葬し、その後も慰霊を欠かすことはなかったといわれます。 こうした背景には何があったのでしょうか。日本はパラオを統治した30年間の間に、道路や電気などのインフラをはじめ、教育・医療制度の整備に力を注ぎました。93%という就学率は、欧米の植民地のそれとは比べものにならない高さでした。 戦後、アメリカの統治領となったパラオは昭和56年、独立に際し、島民に国旗のデザインを公募しました。そこで選ばれたのが現在の「月の丸」です。「日の丸」の太陽の赤色を、月の黄色に変えたそのデザインには「太陽なくして月は輝かない」と、日本を思う島民の思いが込められていたといわれます。 激戦を超えてなお70年もの間、信頼と交流を深めてきた日本とパラオ。戦後の日本人が知らなかった歴史が、陛下のご訪問によって明らかになりました。 パラオの人々のなかには、戦後の日本人が教えられてきたものとは正反対の戦争の歴史が、今も生きています。 本稿は、公益財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2015年7月号)誌に掲載されているものです。 |