| 明治産業維新のリーダーに焦点を当てた、正月の特別ドラマ「百年の計、我にあり」はたいへん見応えのある番組で、思わず引き込まれました。 二百六十年の幕藩体制から、近代国家へと短期間のうちに転換していく、その大きな原動力となったのが産業力です。そこには「和魂洋才」で新たな時代を切り拓いてきた、気骨ある経済人の存在がありました。愛媛の新居浜にある「別子銅山」は幕府直轄として栄え、日本を世界一の銅産出国に押し上げた歴史的な鉱山です。江戸時代は、鉱夫たちが交代でノミを振るう手掘りだけで、何百メートルも掘り進めていました。ところが、人海戦術による鉱山経営は、明治に入って年々苦しくなり、ついには売却する案もでるほどになりました。 この激動の時代に「別子の再生こそが、日本近代化の切り札になる」と百年の計を唱えたのが、後の初代総理事・広瀬宰平です。 住友家では新春の会で「相変わりませず、おめでとうございます」というのが恒例でしたが、宰平はあえて「相変わりまして……」と切り出しました。居並ぶ重役が聞きとがめると、「相変わらずでは、倒れます。一同相変わって旧を捨てて新を取り、禍を転じて福とせねばなりませぬ!」と返しました。 宰平はフランスから六千万円をかけて技師を招き、全山を調査させ、改革プランをつくりあげます。西欧から専門家と機械を入れれば改革は成功できるI−‐。そんな技師のアドバイスを、宰平ははねつけます。 「西欧の技術は西欧だけのものではない。日本人の手で近代化を成し遂げてみせる」 険しい山道に銅を運ぶ鉄道を走らせるなど、前例のない改革を次々と断行し、世界でも例のない銅山へと再生します。昭和の閉山まで掘り進めた坑道の長さは七百キロに及びます。 難しい選択を迫られた時、宰平は自ら定めた。家憲”のとおり、常に「これが日本の国益になるのか」を考え、決断をしました。 宰平の後を継いだ伊庭貞剛は、煙害でハゲ山となった別子を大自然に返すべく植林事業にも取り組み、今では、木々が生い茂る緑の山として、郷土・新居浜を見守っています。 国を思い、郷土を愛し、誰もなしえない偉業を手がけた先人たち。その恩恵の上に”今”があります。百年の計をもって産業を興し、時代を創った明治のりIダーたちに、今こそ学ぶべき時ではないでしょうか。 本稿は、公益財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2016年5月号)誌に掲載されているものです。 |