| 山村の農家で育った青年が、江戸の老舗の足袋職人へ養子に入ったのは、戦後まもなく、23歳のころでした。 20年かかって、ようやく“もの”になる世界。師匠となった義父は厳しく、仕上げた足袋を見せると、すぐにハサミで真っ二つ。その代金は給料から引かれるため、お風呂に入るお金もありません。朝から晩まで「畳の縁を踏んだ」「食べ方が悪い」と理由をつけては、木のへらでたたかれました。“いつか、バットで殴り返してやろう” そうまで思いつめたある日、青年は交通事故に遭い、入院。見舞いにきた友人から聞かされた話に衝撃を受けます。「おやじさんがなんで厳しいのか知ってるかい?医者から5年の命といわれ、早くお前を一人前にと必死なんだよ。ご先祖様にすまねえと、毎日ひれ伏しては、ご神饌を供えてるんだ」 20年かかるところを5年で一人前にーーーーーー。師匠の“仁王様”の慈悲に気づき、心をいれかえた青年は、足袋の世界に専心します。 毛筋1本違えば、履き心地が変わるのが足袋です。お客さんの足に合わせて型紙をつくり、一針一針に全神経を集中させる。職人芸の技を磨き、モラロジーを学んで心を磨き、履く人の幸せを祈りながら縫い上げる、青年の足袋はやがて、力士や僧侶などさまざまな人に愛されるようになっていきます。 戦後の日本人の生活は欧米化し、靴下全盛で足袋は売れなくなります。先行きが見えなくなり、結婚したばかりの奥さんに実家に帰るよう勧めましたが、奥さんの決意は揺るぎないものでした。夫婦二人三脚の足袋づくりはやがて実となり、各地の百貨店から「伝統工芸展にぜひ」と呼ばれるようになりました。 足袋ひとすじに半世紀。「顔をみれば足の形がわかる、足をみれば人柄も健康もわかる」。匠となった青年は、この文化を次の世代にと、店の一角に「足袋資料館」をつくり、訪れる人たちに思いを伝えつづけました。 この3月、桃の花の咲くころ、宮内さんは惜しまれながら、86年の生涯を終えられました。それとともに東京の下町・両国で愛され続けた足袋本舗「喜久や」も“のれん”をおろすこととなりました。 時代とともに、多くのものは変わっていきます。時代を超えて守るべきものも、あるはずです。 本稿は、公益財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2016年7月号)誌に掲載されているものです。 |