| 先の東日本大震災で、台湾からは200億円もの義援金が寄せられました。なぜ台湾の人々はそうまでして日本に心を寄せてくれているのでしょうか。 1895年からの50年間、日本は台湾に対して、欧米列強のような「搾取」ではなく「発展」をめざす“脱・植民地統治”を行いました。生活水準、文化水準ともに台湾を自国と同じレベルに引き上げようと心を砕き、積極的に投資をしたのです。国内の第一級の人材が惜しげもなく、送り込まれました。そこで日露戦争の英雄・児玉源太郎に見出され、総督を補佐する民政長官に、42歳で抜擢されたのが、後藤新平です。 後藤は着任早々、台湾でひと稼ぎしようとしていた粗悪な官僚を千人単位で日本に送り返し、かわりに新渡戸稲造をはじめ、優秀な人材を次々と登用しました。そして台湾の風習や習慣を大切にしつつ、各種インフラや教育、産業を興し、衛生環境をめざましく改善させ、「今日の台湾は、後藤が築いた基礎の上にある」と元総統の李登輝(りとうき)さんに言わしめるほどの貢献を果たします。 逆境ほど力を発揮する後藤という逸材を鍛えたのは、強烈な反骨精神でした。 出身の水沢藩が戊辰戦争で官軍に敗れ、家も没落。「朝敵の子」という汚名をすすぐため、後藤は励み、弱冠24歳で医学校の校長となります。台湾で活躍し、東京市長を務めた直後の1923年、関東大震災が発生。市街地の4割が焼失するという壊滅的な惨状を受け、後藤に帝都復興院総裁の命が下ります。 遷都の必要性さえ問われる中、後藤はこれぞ東京を近代都市にするチャンスとして、大復興計画を発表します。次の地震に備えて、公園と道路を増やし、川を広げ、学校も鉄筋化する・・・・。そのプランは「大風呂敷」とも揶揄され、計画は縮小されましたが、靖国通りをはじめ、東西南北の大動脈からなる現在の東京の骨格は、この時に築かれたのです。 晩年は、日本のボーイスカウト連盟の初代総長として、未来を託す青少年の育成に心血を注いだ後藤。その眼差しは常に、百年先を見すえていました。 人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいをもとめぬよう 本稿は、公益財団法人モラロジー研究所出版部発刊の『れいろう』(2017年2月号)誌に掲載されているものです。 |